「想像する」ということ
今、この瞬間も世界のどこかで誰かが苦しんでいる。
常に聞こえてくる爆弾の音に怯えながら、それでも子どもにはその姿を見せまいと、笑顔を絶やさない母親。
戦争で愛する両親を亡くしてしまい、毎晩悔しくて、寂しくて泣いている子ども。
過酷な児童労働を強いられ、肉体的にも精神的にも傷を負ってしまった少年。
自分の夢など考えられずに、明日の食のことだけを考えて、痩せて骨が浮き出た身体で必死に生きようとしている女の子。
一人一人の苦しみは、
戦争で亡くなった人〇〇万人
児童労働を強いられている子ども〇〇万人
飢餓で苦しんでいる人〇〇万人…。
といった報道による数値で、簡単に片付けられてしまう。
今、この瞬間も世界のどこかで誰かが苦しんでいる。
私には「平和だねー」が口癖の友達がいる。
でも、それは自分の周りにはただ、何も起こっていないだけではないだろうか。いや、実際は既に起きていてもそれを感じられていないだけなのだろう。
今、遠くにいる誰かが泣いているこの状況を、そして更に最悪な方向に物事が進んでいるこの状況を、なぜ人は「平和」だというのだろう。
今、この瞬間も世界のどこかで誰かが苦しんでいる。
国ごとで分けるのもどうかと思うが、あえて書く。
日本でも数えきれないほどの悲惨な事件が、毎日のように起きている。
貧困・いじめ・自殺・過重労働・基地問題・イラク派兵・虐待・レイプ・差別…。
本当に「平和」なのか。「平成は平和だった、令和も…」なんていえるのか。
それは、今の私達の生活がただ「平穏」なだけに過ぎないのだろう。
今、この瞬間も世界のどこかで誰かが苦しんでいる。
愛の反対は無関心だ。
想像して欲しい。今も辛くて泣いている誰かを、世界から見放された気持ちでいる誰かを、もう亡くなってしまった誰かを、想像して想いを寄せてほしい。
そこには、国境や宗教や人種なんて関係ない。
この世界にいる全ての人々が、私が、あなたが、心の底から幸せだと思えるような「平和」な世界を願って。
一緒に「想像」して、この世界を「創造」していきませんか。