憲法第13条マジ愛してる💗

"5月3日にみんなで日本国憲法を読む会"にて

2020.5.3  学生代表A子(本名は隠すが何故か顔は載せるスタイル)として参加させていただいた時の原稿。

大人の前で発言するってほぼ初舞台なのに、なかなか突っ込んだこと言っちゃってますね〜

そして、最後の最後にA子さん噛みましたね〜

見返すと凄い恥ずかしいなぁ

一年経ってないのに、今の自分はこんな文章書けるだろうか?と良くも悪くも思いました。

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私は今の日本国憲法、その中でも憲法第13条が大好きです。
しかし、これまでの私の学校生活を振り返ってみると、私が「個人」として「私」として、居ることが出来なかった場面が多々あったように思います。
これからするお話は、私自身の体験談がほとんどで恐縮ですが、今の社会にも共通するところがあると思って最後まで聞いてくださると嬉しいです。また、途中で学校の先生を批判しているところがありますが、それは、決して私が関わってきた全ての先生のことを言っているわけではありません。
それでは内容の方へ入っていきたいと思います。

小学校高学年の頃。当時の私は、みんなの輪の中に入って遊んだり、話しをしたりすることが大の苦手でした。特に一時は、学校にいる間は上手く声が出せなくなるほど臆病な子供でした。
当時の先生は、そんな私を意識してだと思います。よく「一人でいる友達がいたら、声をかけてあげようね」と道徳の授業なんかで、生徒に教えていました。その言葉はもちろん、先生の優しさから来ていたものだったと思います。
しかし、当時の私にはその優しさがどこか重く苦しいものに感じました。
なぜなら、「1人でいる友達」、つまり「私」は、1人でいない「みんな」とは違って、ダメな子なんだと思うようになったからです。
また、先生が言った「声をかけてあげようね」という言葉の「あげる」という部分に、私は傷つきました。「あげる」の反対は「もらう」です。1人の私は、いつもみんなから「もらって」過ごしている。
私って迷惑ばかりかけているんじゃないか。
そう、小学生ながらに感じました。
私は自分を否定するようになりました。そして、その反動で周りに対しても冷たい態度をとるようになりました。そうすると当然、そんな私になど継続して声をかける人はいなくなりました。代わりに何人かの子から一時的に無視をされるようになりました。私は、存在そのものを無かったことにされたことが本当に辛くて、次第に自分なんていない方がいいんだと思うようになりました。

時が経ち、そんな私も高校生になるとある程度楽に人と会話が出来るようになりました。そうなるまでに苦労をしましたが、100人友達は出来なくても毎日、2・3人の友達と仲良く過ごせたことが私にとっては本当に嬉しいことでした。
それでも、高校生になって自己否定をしてしまうことはたくさんありました。
高校では、勉強や部活の「出来る・出来ない」や大人に対する態度だけで、大人は私を一方的に評価し、ほかの生徒と比べました。
私は無意識のうちに、大人の理想とする学生を目指すようになり、その競争に勝たなければならないと思うようになりました。
勉強ではたいてい学年3番以内に入りました。
でも、1番になれなかったときはかなり自分を責めました。
部活動との並行で、追い詰められ過呼吸になったこともありました。
また「先生の言うことを聞きなさい。」「素直になりなさい」そんな大人からの命令には、一つも漏らさずしっかり答えました。
制服や頭髪の規制も、ちゃんと守りました。
でも、大人が一人一人違った考えや個性を持つ生徒を無理やり1つの枠に押し込めようとする度に、私は自分の存在意義が分からなくなりました。
みんなと同じだということは、私じゃなくても代わりの人がたくさんいるからです。
それでも、ありのままの自分を出すことは学校では許されません。
私は結局、どんな自分も大嫌いになりました。

憲法第13条 すべて国民は、個人として尊重される。
憲法にはこうやって書かれているのに、
私の生きる世界には、最小単位の「個人」など、存在しませんでした。
はじめて憲法第13条をみたとき、ふざけるなと思いました。学校って一体何だろうと思いました。
私や友達だけじゃない。先生だって、大人だって、「個人」なんかじゃありませんでした。
いつも世間の顔色を伺って
校則やら、規則やら、目上の人とやらに言われたことばかりを気にして本当に大切な「個人」の心を誰も見ようとなど、しませんでした。
家庭の生活が苦しくてなかなか学校に行けずに家で必死に働いていた子を、ある大人は「一体、親は何をさせているんだ!?」と罵倒し
学校で大きな怪我をして泣いている子に対して、ある大人は「授業中に怪我したの?」と真っ先に自分の責任がないかを気にしました。
世間の目ばかりを気にして、自分でよく考えもしない・誰かの心に寄り添えないような無責任な傍観者が、純粋な子どもの心を傷つけてきました。
いつだって傍観者が
「自分の意見を言ってはいけない
「空気を読まなければならない」
「理不尽は耐えなければならない」
という空気を作り、
「自分には社会を変えられないと感じる人」や
「自分には価値がないと感じる人」や
「人生に希望が持てない人」を作り出してきました。
そして、今はこんなことを言っている私自身も、そう気づいた時には既に「傍観者」になっていました。

この、憲法を読む会の原稿を作る前、一度過去の自分と向き合い小学生の頃と高校生の頃の自分を比べてみました。
根本は何も変わってはいませんでした。
結局、私は小学生の頃から高校生の頃までずっと「本当の私の姿を誰かに認めてもらいたかった」。それだけでした。

 

一体、私たちは社会の空気の一つになるために生まれてきたのでしょうか。
誰かに利用されるために生まれてきたのでしょうか。
私は私のために、あなたはあなたのために、この世に生まれてきた訳ではなかったのですか。


言われたことができる。誰かの真似をする。
こんなことはロボットでも出来ます。
私やあなたや、他の誰かはこの世界に1人しかいません。本当は、みんなそれぞれ違うからこそこの世界は美しいのではないでしょうか。

私がこんなことを思えるようになったのは、
政治経済の授業やいくつかの講演会がきっかけでした。また、そこで出会った人との繋がりが私を変えてくれました。
学校から離れ、広い世界を見渡せばそこには、「人」としてではなく、「個人」として、自分と向き合いながら生きている人々がたくさんいました。
そこには、ありのままの私の姿を認めてくれて、時には私の本当の言葉に涙を流してくれた人々がいました。私はこの時はじめて、みんなが自分の存在に気づいてくれたような気持ちになりました。
そして、内気で臆病な自分・人と比べて不器用な自分も案外悪くないと思うようになりました。
同じような気持ちを持つ人に寄り添えたり、こうして今日も発言することが出来ているからです。

 

繰り返しになりますが、一人一人、誰として同じ人はいません。だからこそ、価値があり、お互いに欠如を補い合って生きていけるのだと思います。
ありのままの私がいるからあなたが笑えて、ありのままのあなたがいるから私が笑って過ごせるのだと思います。

私は最近、自分自身と約束したことがあります。
まずは、ありのままの自分を受け入れること。
次に、自分の道は自分で切り開くこと。

私はこれまで、他人の命令や約束には積極的に守ってきました。でも、自分の気持ちにはいつも逆らって生きてきました。「個人の尊重」が実現する社会に変えていくには、まずは自分を大切にすることから始まっていくのだと思います。

また、私には私にしか開けないような道が、たくさんあると思っています。


この世界の変え方は、人の数以上にあると私は思っています。
これに関しては、もしかすると変えていくための手段が同じだったらどうするんだ?という疑問を持つ人もいるかもしれません。
でも、手段は同じでも、行動する「個人」が違えば、それは全く違ったものになると私は思います。
たとえば、同じ歌を歌ったとしても
あなたの歌声と、他の人の歌声では全然違った印象を受けます。例えカラオケでも、心を込めて歌ったのなら人の心に響くのです。あなたが表現するからこそ、他の人とは違った価値が生まれてくるのだと思います。

 

だから、誰のためでもない、自分のためにもっと生きても良いということ・1人1人が、模倣ではなく自分や社会を創造していけるということ・個性は比べるものでもなく、一人一人が輝いているものだということを、私はみなさんに、自分自身に改めて伝えます。

 

そして、最後に。
今、こうして私の意志で、私の思ったことを発言できているということにとても幸せを感じています。
このような機会を与えてくださった皆さん、最後まで聴いてくださった皆さん、
本当にありがとうございました。