世界の果てを見つけることは出来ない

今日もまた、余計なことを考えてしまった。
また、この時間まで眠れずにいる。(朝4時半)


今日はネットで、ゼノンのパラドックスについての記事を見た。


ゼノンのパラドックスとは、
時間と空間の実在性を否定するためのパラドックスで、全部で4つ存在する。らしい。


面白いけど、この眠たい頭でアレコレ考えるのは大変だ…1つだけ見てみることにする。


・二分法

1.ある地点Aからある地点B0へ移動することを考える。
2.AからB0へ移動するためには、AとB0のちょうど半分の位置にある点B1に移動しなくてはならない。
3.AからB1へ移動するためには、AとB1のちょうど半分の位置にある点B2に移動しなくてはならない。
4.AからB2へ移動するためには、……(以下同様)
5.以上のように、AからB0へ移動するためには、無限の点を移動しなくてはならない。
6.無限の点を移動するためには、無限の時間が必要である。
7.これは不可能である。よって、AからB0へ移動することはできない。


無限の点…
なんだか少し切ないと思う。


無限の点は、まあ、無限だから一つ一つに名前をつけることはできないし、
名前がなくて目に見えないから、私達はそれを自分から想像しない限り、存在を見つけることもできない。


結局、言葉はいつも、何かを一まとめにしたものでしかない。私たちは、ある地点Aからある地点B0を言葉にすることは出来ても、
無限の点一つ一つを言葉にすることは出来ない。

(一回寝た)


じゃあ、それは私の心もそうではないのか。
例えば、私と誰かの悲しみは、いくら状況が同じだったとしても、それ自体は決して同じではない。


私達は「悲しい」と言葉にすることで、自分の感情を相手に受け取ってもらおうとするが
勿論「悲しい」だけでは、自分の心の感情の全てを伝えることにはならないし、
また、言葉を巧みに組み合わせて、悲しみを表現したとしても、それは同じで
そこにはただ、整理整頓された言葉が羅列されているだけである。
後は、一人一人の想像の中に任せるに他ない。
それはもう、人によって意味が変わってきてしまう。


私たちは、ある地点Aからある地点B0を言葉にすることは出来ても、
無限の点一つ一つを言葉にすることは出来ない…


誰にも気付いてもらえない、また自分でも気づかないような小さな小さな感情が、私たちの中にはある。虚しい。


でも。

だからこそ、想像をやめてしまってはならない。
想像したところで、感情を全て拾うことなど出来ないが、感情は言葉に簡単に表せるほど、単純で安っぽくはないだけだと思う。


きっと「想像する」こと・「気づこう」とすること、そこに意味が有る。
本や映画や、音楽…。私達の人生そのものは、そこに魅力があるはずだ。
それでも、誰もが気付いてもらえない悲しみを抱えている時は辛いけど。


最近も、悲惨なニュースを目にする。
自分自身がニュースで見るような悲惨な光景とはかけ離れた生活を送っている。
日々の生活の中でそういった悲惨なニュースに罪悪感が芽生えることもあり、時に自分はここにいて良いんだろうかと感じてしまうこともある。
でも、その悲惨な光景を「想像」することで今はもう存在していない誰かを私たちの中に存在させることはできる。


名前が分からず目に見えなくても、私達は自分から想像することで、存在させることは出来るのだ。


いつだって、感じることにエネルギーを費やして生きていたいと思う…