生きづらさと向き合う

私は、未だに自分の利き手利き足がわからない。
元は左だったけど、「不便になるから直しなさい」と言われて箸とペンは右に直した。でも、ハサミとかカッターとか危険なものは直しきれず、未だに左利きのまま。ボールは意識しちゃって、手も足もどっちかよくわからない。スタートダッシュは、隣の選手との衝突を回避するために右にした。
(元左利きなので)完全に右利きや左利きの人よりは、両利きといえば両利きだけど、中途半端だ。私の不器用さはここから来ていると思う。
ボールとか編み物とか折り紙とか、右利きか左利きか未だに自分でもわからないものが絶望的に下手。
新しいことに挑戦するたびに、一々どちらの手がやりやすいのか考えることがダルい。

左利きは、周りの大人から矯正をされたり、右利き用道具の使用を強制されたり、右利きに気を遣ったりするなど、"ドラマには出来ないような"生きづらさを経験する。"ドラマに出来ない"というところが、実はもの凄く厄介で、子どもの言葉で一生懸命それを伝えても「頑張れば直せるよね?」の一言で片付けられてしまう。
右利き左利きに関わらず、"盛り上がりに欠けるような"生きづらさは、取り上げられにくく1人で抱え込みやすい。自己肯定感や自己効力感をジワジワと削っていく。

今までの文章の右利きを"常識"、左を"個性"という言葉に置き換えると、それは私の生きづらさの概念になると思う。
表面上は、環境に適応することが出来るけれど、その裏ではいつも頭をフル回転させている。死ぬほど浮きはしないけれど、どこか隠しきれない。友達が殆ど出来ないのは多分これ。

 

私は私のままで生きることにした/キム・スヒョンに、「資本主義の最大の悲劇はお金に換算できない才能を無価値とすること」という一文が書かれている。
右利きの強制文化は、まさに資本主義の悲劇を象徴していると思う。小学生向けに言うなら、"みんな同じじゃないとダメだよ〜"ってこと。

絵やピアノや本に没頭していると、楽しいと思いつつも「勉強しなきゃ」とどこか罪悪感が付き纏う。本当は、これこそが勉強で、自分と向き合う大切な時間なんだけどな。

今日はピアノを叩く両手を見ながら、そんなことを思った。